2013年09月11日(水) 宝泉寺禅センター2日目

 

5:20起床。
5:40より太極拳の八段錦。…八段錦って太極拳の一種なんだっけ?別物かと思っていたが。
どちらにしろ、ここでは武術的な意味合いも含め、姿勢の要点なども求めず、朝のラジオ体操の位置づけであった。

その後、作務として、本堂その他の掃除。
現在の入山者は多く、どうやら掃除場所に対して過剰に人がわりあてられてしまう様子。そのため、掃除などは直ぐに終わってしまうのだが、決められた時間まで掃除を辞めることは出来ぬらしく、後半は(サボる気は無いのだけど)まだやっているふりをして過ごしている人も多くみられた。
俺は、今日の所はトイレ2つを一人で担当したので時間ピッタリだったが、先のように時間をもてあましてやってるふりをする時間っていやだのう。つか、一人ぐらい俺のトイレ掃除に回せばいいのに。

掃除の次は朝飯。
この掃除や朝食も含めてだが、スケジュールが先に説明にあったものと異なり、先が見通せず、あわせるのが大変。
どうも、現在は夏期スケジュールで、作務関係は涼しい内に行う様に変更されている様なのだが、この暫定スケジュールが何処にも示されてないので、つど次の時間を言われるがままに進める事になり、最終日まで油断できなかった。

朝飯後は、作務で畑仕事。
門前の落ち葉ひろいのほかは、畑仕事である。前者のほうがお寺の修行チックでやりたかったが、非力な人がまわされ、俺の様な力な人は畑仕事となる。
畑仕事にも色々有るが、俺の担当は肥料を畑のそばに寄せておくというもの。これ以外のものも含めて、どうも作業がわざわざ非効率なやりかたばかりだ。
作務も修行なので、効率は求めないのかも知れないが、効率的にしないのではなく、標準よりわざと非効率な方法をとっている様に見える。
だまってそのまま従うが、どうもこれが釈然としない。もしかしたら、身体の鍛錬が目的でわざと非効率にしてるのだろうか。禅宗はもとを辿れば少林寺。そういうこともあるかも。俺も脇の下に刀を当てながら、水汲みでもしたほうが良いかもしれぬ。

作業の後半は、他の人が収穫したしその葉むしり。
赤い若い芽は、ゆかり用として、その他の葉はしそジュースにするらしい。

朝の作務を終えると、朝の座禅に25分を2セット。
今回は退屈や足が痛いというより眠気が凄い。そっちと戦うのが大変だった。
眠るのも涅槃寂静の境地でOKにならないだろうか。

朝の座禅後は昼食。
昼食に限っては修行の一環から離れて自由に喋りながら食べても良いらしい。理由は分からないが。

昼食後は13:00〜16:40で自由時間。
無駄に過ごすまいとは思ったが、少し気を抜くのと、朝の座禅の時の眠さがヤバかったので、仮眠を摂っていた所、最後まで寝て過ごしてしまった。

そして夕食と、その後の座禅。
座禅では、眠気は無いが足が痛い。あと、ここ1,2年のイライラが頭に浮かびまくって離れず、この雑念を振り払うのが大変。まぁ、それが座禅の入り口ではあるので、昨日よりはましかもしれない。

その後、自由時間。
このセンターでは水曜日は入山者を受けれいてないので、今日は新入山者が増えることはなかった。下山する人もおらず、総勢で30人ぐらいって所だ。長期滞在者も通常より多く、10人ぐらいいる。全体の内訳は、現在は9割方が若者だ。
また、和尚さんは臨床心理士の先生でもあり、カウンセリングの一環で受け入れている人もいる様子。

そんななか、自由時間には周りに話かけてみてはいるが、あまり溶け込める気がしない。
長期滞在の人同士や顔なじみとなった人の間での結束が硬くて、話に入れない感じもある。
または、「ここでは自分が先輩であるので、舐めるなよ」という態度の人もいる。

単に年齢差のせいかもしれないが、俺がまともに話が合ったのは、同じ日に入ったおばさんだけだった。
もう一人、同部屋の青年がよく喋りかけてくるのだが、かなりKYな人であり、やりとりにとても疲れる。

このあたりの人との交流も修行か。「人生そのものが修行である。」と、初日の和尚さんの説法にもあったしな。
どうも寺の修行というと、「世俗と離れて」と物静かなイメージでは有るが、世俗と離れるが「世俗と離れた人同士のやりとり」が発生するのね。

今日も22:00に就寝。