3月 3 1998
サラブレッド | さ行 | 俺様万物網羅百科事典
馬の品種。
これにかけて他の物でも、エリート種をサラブレッドと呼んだりする。
そのわりにサラブレッドの定義を良く知っている人があまりいない。
サラブレッドの定義は誰が決めた?何で競馬ではサラブレッドじゃないと出馬できないレースが有るんだ?
- 答え -
結局サラブレッドの定義はとは、今ではサラブレッドと認識されている馬がいるので、それを基準に判定出来るのだが、初代のサラブレッドに関しては、細かくつっこんでいくと矛盾がある事がわかった。 早い話が、『そう決めたから』と言う事である。
そして、何でサラブレッドじゃないと出馬できないレースがあるかも、『そう決めたから』と言うことであるな。
以下は皆の者から頂いた回答である。
項目 | 答え | 情報提供者 |
定義 | 17世紀末から18世紀の始めにかけて、アラビアや中央アジアからイギリスに輸出された天然の純血種(いわゆるアングロアラブ)やその近縁馬をその土地の馬と掛け合わせたのが始まりである。 その中から、速く強いものを選び出し、さらにそれらを交配しスピードと美しさを追求した物がサラブレッドである。この時期、多くのアラブが輸出され多くの子孫が誕生したが、今日その血脈を辿ることが出来るのはたった3頭である。 ゴドルフィンアラビアン、ダーレーアラビアン、バイアリータークのいわゆる「サラブレッド三大祖」である。 日本に限らず、世界のどんな場所であろうとサラブレッドであるならば父方の血統を遡れば必ず、この3頭のいずれかにたどり着く。逆に言えばこれらにたどり着けない者はサラブレッドとは呼べないのである。 全部雄で兄弟ではない。 | ゆ様 |
三頭の時代にサラブレットという言葉はなかったはず。 JRAのサラブレットの定義は 「4代前までの父母がすべてサラブレット」である。 「じゃあ、始まりはどうなっているんだ?」と俺は思ったが、きっと昭和初期のころは、どんな馬でもよかったのだろう。 アラブの血が混じっていると「サラ系」といわれ現在のJRAのレースには出れない。(地方は出れる) ちなみに現在約9割のサラブレットがダーレーアラビアン系で、ゴドルフィンアラビアン系の種牡馬は日本に1頭しかいない。その子供が弱ければ、日本ではゴドルフィンアラビアン系は絶滅して、二大祖になってしまうかも? | ナイスマT | |
昔アラブの金持ちが強くて早い軍用馬を作ろうと何100頭かの馬を馬小屋に閉じこめて餌も水もいっさいやらずにおいて、最終的に生き残った3頭が例の3大祖だそうです。そして現在ではゴドルフィンの子孫が主流で他は傍系になってしまっているそうです。 | yky | |
確か以前文献で読んだことがあったのですが、3大祖はなにも3頭ではなかったのです。そもそも馬はアラブに優秀な馬が多く、それに目をつけたヨーロッパのある王様(誰かは忘れました)が、いい馬を何頭か手に入れようとしたのです。 多分戦争とかに使うためだったと思います。そして輸送の距離が長く、また過酷だったために3頭以外死んでしまい、残ったのが3大祖となりました。 ちなみに牝馬については、もとからヨーロッパにいた種だと思います。そしてそれら血統で独自に発展したのがサラブレットと言われる種です。 | あうふ | |
その定義は誰が決めた? | 謎 定義が決まっているくせに、どうやって決まったかわからんのかい。 | |
何で競馬ではサラブレッドじゃないと出馬できないレースが有るんだ? | 謎 結構いい加減だな。 |
さらに、きゅうたろうより総合的な答えを頂いた。
サラブレッドとは何なのかについて | ||
まず、種別的にどういうものなのかというと、1700年代くらいから、イギリスの貴族や軍人が中心になり、中東 から輸入したアラブ馬(アラビアン)、トルコ馬(ターク)、北アフリカの馬(バーブ)等のオス馬を、イギリス土着の種のメス馬に掛け合わせたものが始まり です。その後、これらの馬が何度も掛け合わされて、生まれて来たのが、現在のサラブレッドにつながってくるわけです。 じゃあ、この条件の馬なら、サラブレッドになってしまうのかというと、そうではありません。具体的な条件が決められています。それは、イギリスで刊行されている「ゼネラルスタッドブック」、通称「ブック」によるのです。 この「ブック」は、1793年にイギリスのジェイムス・ウェザビーが第一巻を発行し、その後、4年に一度、今でも発行されています。具体的にいえば、この本に載っている馬が、サラブレッドなのです。 しかし、主にイギリス内だけで、交配されているうちは特に問題は無かったのですが、19世紀末、サラブレッドの世界に、アメリカやフランスが加わり、アメリカ等からの輸入馬が増えるに従い、明確なサラブレッドの定義が必要になりました。 そ こで、「ブック」は、1913年に「ジャージー法」という規則を発表しました。それは、「これからのち、牡馬、牝馬いずれもすべて、その父系母系どちら も、本書既刊のどれかに登載された牡馬、牝馬に少しの切れ目もなく遡りうるものでなければ、登録有資格馬として認定されえない。」というものでした。 こ の排他的な内容は、アメリカやフランスの馬主たちに猛烈な反発を呼び、結局は、1949年に、「こののち、登録を求めるいかなる馬も、純血の交配を八ない し九回したことを完璧に証明でき、その系統を少なくとも一世紀間は遡ることが可能で、純血の確信を保証するため競走においてその直後の系統のしかるべき成 績を示すことができるもの」と改められました。 ただ、これは世界の標準であって、日本の標準はもう少しゆるくて、5代前までがすべてサラ ブレッドに認定された馬ならば、その馬もサラブレッドとして認定されるようです。でも、世界のレースに出るには、上記の8ないし9代前までの規定を満たさ ないといけないということです。 これらに該当しない馬は、サラブレッドやアラブ種の血の濃さにより、サラ系やアラブ系などと分けられています。 |
||
サラブレッドの三大始祖 | ||
今までの話を読んで分かるように、サラブレッドの祖先にあたる馬は実際には一杯いるわけです。実際、「ブック」の第一巻には、アラブ系種牡馬が102頭掲載されていました。 では、なんで今は3頭の血脈しか残っていないのかというと、これはある意味言葉のマジックです。三大始祖の意味をよく考えてみると分かります。つまり、「今のサラブレッドを父の父の父・・・と父方を遡っていくと、かならずこの三頭にたどり着く」ということです。 じゃあ、その前は?って話になりますが、この当時のアラブ馬は、イギリスが中東から奪ったものが大半だったので、よく分からんというのが現状です。 ま た、父方の先祖として残るのが、この三頭というだけなので、母方のどこかとか、父の母方のどっかとかに、この三頭以外で「ブック」第一巻に載ってる種牡馬 が存在する可能性はあるわけです。そういう意味では、純粋にこの三頭の血のみで、現在のサラブレッドが形成されているわけではありません。父方はこの三頭 ですが、母方や父の母方などには、「ブック」に載ってる他の種牡馬や繁殖牝馬たち、アメリカやフランスで独自に作られた馬たちの血が混ざって出来ているわ けです。 では、父系にはこの3頭しか残っていない原因はなんなのかというと、サラブレッドの遺伝の偶然と、人間による必然的な取捨選択に よるわけです。おそらく、「ブック」第一巻に載っている102頭の種牡馬たちはいずれも名馬といえるものばかりだったはずで、その時点では種付けにおい て、三大始祖のみが優先されていたわけではないはずです。でも、102頭の中で種付けしても良い子供を作れない種牡馬もいるわけです。そうすると必然的に その種牡馬を種付けする人は減っていき、最終的に馬主は種牡馬引退をさせるしかなくなります。当然、彼の子供たちも、競争で良い成績を残せていないので、 一頭も種牡馬になれなかったりすれば、彼の血脈はそこで途絶えるわけです。 ただ、彼の子供の中にメス馬がいたりすれば、父の父は無理でも、母の父として、彼の血が残っていく可能性はあるわけです。(この辺が、三大始祖の言葉のマジックになるわけです) まあ、300年間もこのような、偶然と必然が繰り返された結果、三大始祖のみが直系の血脈を残せたということになったのです。# 余談になりますが、実際の所、種牡馬としてすごかったのは彼ら3頭ではなく、彼らの数代後の直系の種牡馬たちなのだという人もいます。それは、エクリプス (ダーレーアラビアンの5代目直系)、ヘロド(バイアリータークの3代目直系)、マッチェム(ゴドルフィンアラビアンの5代目直系)の3頭です。 いわゆ る三大始祖から、彼ら3頭までの間には、枝分かれして残っている種牡馬は居ません。彼らは1700年代半ばから終わりに掛けての馬ですが、事実、この時代 には、三大始祖の血を引く他の種牡馬も、他の始祖からの血を引く種牡馬も居たようですが、この3頭の台頭により、一気に他の系統が淘汰さ れたそうです。 現在の父系を辿ると三大始祖の系統で枝分かれが起こるのは、 エクリプス、ヘロド、マッチェムの子供たちからで、その上で枝分かれした 系統や、他のアラ ブ系始祖種牡馬の系統はまったくなくなってしまったわけ ですね。というわけで、実際の始祖は彼らだという方もいるというわけです。 |
||
何で競馬ではサラブレッドじゃないと出馬できないレースが有るんだ? | ||
最後にこの疑問ですが、完全に明確な答えはないのだと思います。あえて言うなら、そういう規定だからとし か、、、限りなく純血に近いサラブレッドを保護することで、サラブレッドは進化してきたのだという歴史と、アラブ系やサラ系と比べてのサラブレッドの強さ (平均的に言って)が、こういう区分を生んでいるのでしょう。 ただ、実際、サラ系やアラブ系にも交流戦とかでサラブレッドをぶち抜いてしまう怪物はいるわけで、こういう馬に対して、中央が門戸を開けるようになるといいなあとは思います。 |
—
3月 3 1998
三国志 | さ行 | 俺様万物網羅百科事典
「三国志」と言う名の示すとおり、
中国が三つの国に分かれて争っていた時代(西暦二二一~二六五年)の事を書いた小説。 『三国志』とは実は正史(国家事業として編修した歴史書。また、最
も正統と認められた歴史書)の名であり、晋(三国を統一した国)の陳寿の編集にかかり、小説とは別の書物。
小説のほうは、正史を平易な言葉にかきかえたと言う意味で『三国志平話』とか、『三国志通俗演義』、『三国志演義』などと呼ばれた。 小説の作られた確
かな年代はわからないが、長い年月を何人もの作者の経て完成されて行った。 その中でもっとも重要な作者は羅漢仲と言われている。
ここで取り上げる「三国志」は小説のほうであるが、日本で「三国志」と言うと、吉川英治のものがもっとも有名であり、『三国志を読んだ』と言っている人はたいていこちらを指している。
こちらの三国志は、吉川英治が日本の道徳的に受け入れられない部分を削ったり、創作を加えたりしたもので、日本風に噛み砕かれており、非常に読みやすい。 ただし、諸葛亮が没するまでしかかかれていない。
日本における「三国志」と言うと、もう一つゲームの光栄の三国志が挙げられる。 どちらかというと、三国志の世界へはこのゲームから入る人が多く思え
を見て、
る。 あと、このゲームをやるためにパソコンを買う人も続出。 その後、ファミコンでも発売され、その人気を不動のものとした。
俺様もかなりファミコン版をやり込んだ。
ある日、このゲームを始めようとしたところ、我が母親が通りかかってTVに映ったタイトル画面
「『吉幾三(よしいくぞう)』って。 あんた、どんなゲームしてんの?」
と言われてしまった事が印象深い。 文字が右から書かれている上に、”国”が、古い”國”と書かれているので、ぱっと見確かにそう見えるな。
複数人で対戦プレーも出来るのだが、一人がコンピュータと戦争などを始めてしまうと、他の人はやる事が無く待ちきれないため、大抵最後までやってられない。
最初の三国志ゲームだけあり、登場人物のデータが???ってやつもいたが、非常に楽しめた。
人材捜索したところ、在野に魯粛を発見。
そこで、『君主自ら出向く』で登用に向かったところ、孫策が魯粛に斬られた。
孫家と魯粛は相性が良いはずだし、他国の配下ならともかく、在野武将が登用に来た君主を殺すのも考えられない、小覇王と呼ばれた剛の者である孫策を、戦闘力の乏しい魯粛が殺すのも凄い、とつっこみどころ満載であった。 よほど魯粛の虫の居所がわるかったのだろう。
当然兄は怒り狂っていたが、非常に笑わせていただいた。
—
By 俺様 • さ行 • 0