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3月 1 1998
北斗神拳考察論 研究者:北東 健 / 助手:俺 様
今を去るおよそ二千年前(*1)、天帝(*2)の盾として北斗宗家(*3)はすでに世に君臨していた(*4)。 そして世は天帝を喪失(*5)したため、戦国時代に突入してしまった。 その戦国時代目の当たりに、北斗宗家を守護する高僧(*6)たちは困惑し『覇者多ければ世もまた乱れる、覇者は一人にしなくてはならぬ』と考えた。 そして彼らが望む覇者とは北斗宗家の血を引き、かつ新しき無敵の暗殺拳を創始できる男、その男こそが真の救世主となると信じた。 しかし折しも北斗宗家は男児に恵まれず、その血を次ぐ者は、オウカ、シュメという名の二人の姉妹のみであったが、皮肉にも二人は同じ日にそれぞれリュウオウ、シュケンという待望の男児を生み落とした。 「このまま二人を同等に育てると、また二人の覇者を生み天を国を二つに割ることになる」と高僧たちは苦慮し、降天台に二人の乳児を置き、あえて狼にさらし天の声を聞こうとした。 降天台とは北斗宗家の始祖が神の剣を握ったとされる聖地で、そこで生き残った赤子こそがすなわち始祖の意を受けた北斗宗家伝承者としようとしたのである。 しかし、病に冒され先が長くなかったシュメは、我が子を助けに降天台に向かい、オウカ、高僧たちに見つかってしまう。 そこで、初めてオウカはシュメの病を知り、伝承者をシュケンに譲ると宣言したが、高僧たちは聞き入れなかった。 するとオウカはその場で身を投げて訴え、その身を賭した深き慈愛に高僧たちも動かされシュケンを伝承者とした。 シュケンは期待通り北斗宗家の拳を元に北斗神拳を完成創始した。 また、その拳はあまりの凄絶さとその伝承者選びの秘話故に一子相伝とされた。
上記が記録に残されている、北斗神拳創始伝説である。
しかし、私の見る限りでは、このシーン以外ではトキを始め、北斗神拳士が太極拳の技を使うのを見たことが無い。 どちらかと言うと太極拳の様に相手に密着したするより、距離をおいた位置での間合いが多い。 どちらかというと太極拳より正反対の風格を持っていると思う。 ただトキが柔法が得意なため、個人的に兼習していただけで、ケンシロウがその動作を印象深くとらえて記憶していただけかもしれない。 「本来ならかれが北斗神拳の伝承者になるべきはずの男だった…」と言った後の回想シーンなため、
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お断りの返事
前略
行きたくないので行きません。
草々
– xxxx年xx月xx日
By 俺様 • 俺様の代筆 • 0
1月 23 1998
いよいよインターネットにデビューする事に。
と言っても、今どき大した事ではないのだけども。
それにこれは、某会社のイントラネット上で、『俺様 with 白い負け犬』と言う名で、白い負け犬と足かけ2年ほどやっていたのでそこから見た人は、あまり代わり映えがしないないと思うでしょう。
なぜか無性に『俺様について』を、そこに登場した大学時代の友人に見せたくなり(イントラネット上だとファイヤーウォールがあるため、外部から見れない)インターネット上においておくことにした。
このページはもともと冗談で作っており、『版権、著作権が何のその』と言う姿勢だった為、そこら辺の修正を行いながら、 その他の部分は順次移植していこうと思う。
移植が終わったら、その先を続けるかどうかは『反響はどうか』『気分はどうか』『残り容量はあるか』によって決まるでしょう。
何かの手違いや不幸でこのページを発見してしまった人も読んでも、くるしゅうないぞ。
-1998年1月23日
By 俺様 • インターネットデビュー • 0
3月 1 1998
北斗神拳考察論 | どうでもいい話
北斗神拳考察論
研究者:北東 健 / 助手:俺 様
北斗神拳(劉家北斗神拳)は、数ある中国武術の中でも、日本でもっとも知名度が高い門派といえる。
しかし、伝承者も少なく簡単には習うことができ無いためか、知名度の割に発表された書籍が少なく、信頼できる資料としては僅か北斗の拳27冊、別冊1冊、及びそのTV番組総集編3巻が有るのみで統計だった物がない。この研究を開始するに当たり、TV番組全話を見直したかったが、私が住んでいる関東圏では再放送が1度も無いため出来ずにいる。
大学の卒業研究の裏研究として始め足掛け5年、未だ研究途中ではあるが研究の一端を、ここに発表できる事は望外な喜びである。研究当時から協力して頂き、この様な発表の場をも提供して頂いた俺様君にはこの場を借りて深く感謝する。
又、これに続く今後の研究に期待する。
なお、ここに公開する見解は、北東健個人のものであり、北斗神拳一門を代表するものではありません。
女人像に刻まれていたという、劉家北斗神拳創始伝説を載せる。
今を去るおよそ二千年前(*1)、天帝(*2)の盾として北斗宗家(*3)はすでに世に君臨していた(*4)。 そして世は天帝を喪失(*5)したため、戦国時代に突入してしまった。
その戦国時代目の当たりに、北斗宗家を守護する高僧(*6)たちは困惑し『覇者多ければ世もまた乱れる、覇者は一人にしなくてはならぬ』と考えた。 そして彼らが望む覇者とは北斗宗家の血を引き、かつ新しき無敵の暗殺拳を創始できる男、その男こそが真の救世主となると信じた。
しかし折しも北斗宗家は男児に恵まれず、その血を次ぐ者は、オウカ、シュメという名の二人の姉妹のみであったが、皮肉にも二人は同じ日にそれぞれリュウオウ、シュケンという待望の男児を生み落とした。
「このまま二人を同等に育てると、また二人の覇者を生み天を国を二つに割ることになる」と高僧たちは苦慮し、降天台に二人の乳児を置き、あえて狼にさらし天の声を聞こうとした。
降天台とは北斗宗家の始祖が神の剣を握ったとされる聖地で、そこで生き残った赤子こそがすなわち始祖の意を受けた北斗宗家伝承者としようとしたのである。
しかし、病に冒され先が長くなかったシュメは、我が子を助けに降天台に向かい、オウカ、高僧たちに見つかってしまう。 そこで、初めてオウカはシュメの病を知り、伝承者をシュケンに譲ると宣言したが、高僧たちは聞き入れなかった。 するとオウカはその場で身を投げて訴え、その身を賭した深き慈愛に高僧たちも動かされシュケンを伝承者とした。
シュケンは期待通り北斗宗家の拳を元に北斗神拳を完成創始した。 また、その拳はあまりの凄絶さとその伝承者選びの秘話故に一子相伝とされた。
上記が記録に残されている、北斗神拳創始伝説である。
北斗神拳は中国武術の一派であることは先に挙げた書籍により明らかである。 しかし、中国武術と一口に言っても何百も門派があり、技術の性質上の相違等といった様々な角度から類別する事が出来る。 一般的に『南派拳術/北派拳術』、『内家拳/外家拳』、『技術による分類』等といった分類をされている。
南派拳術と北派拳術の区分は、俗に「南拳北腿」といわれ、南拳(南派拳術)は突きが得意で、北派は蹴りが得意と言われるが、この分類はあまり正しくない。 事実蹴り技を多用する南拳、蹴りの少ない北拳はいくらでもある。
南派拳術と北派拳術の区分は、南派とは長江(揚子江)から南のことを言うが、拳法の場合は特に広東省・福建省を中心とした珠江流域を指したものをさしていう。
北斗神拳がどの地方で伝承されてきたかは定かではないが、この南派と北派では技術的な相違が大きいのでそちらにより考察してみる。
南派拳術は一説によると、船の中で研究されたと言われる物もあるように、一カ所に固定し手技を多用し、練習時には力を込めて筋骨を鍛え呼吸時に口から発することがある。
北派拳術は歩幅が広く、技を使用するのに大きく前後に移動し跳躍技をたぶんに含む。蹴りも練習時以外では腰より上を蹴ることはあまりない。
上記のことは必ずしも、北派の技術は南派は行わないと言うわけではないが、あくまでも主にしている事であり、套路(空手でいう型)を比較するとその特徴が伺える。
北斗神拳をみると、看板技とも言える「北斗百烈拳」の様に、歩を固定したままの突きの連打を繰り出すことが多く、蹴りなどを見ても南派拳術に見られる蹴りを多用する。
北斗神拳は南派に属すると言えるのではないだろうか。
『内家拳/外家拳』の分類は諸説ある。
その第一の説では威力が外に見えるか見えないかで分類する物である。 簡単に言うと、見るからに強そうに見えるのを外家拳、太極拳のように門外漢が見ても威力が伺い知ることができないのを内家拳というのである。
これでいくと、北斗神拳は間違いなく外家拳と言える。
もう一つの説は外家拳の外家は仏教の出家のことであり、内家拳の内家は在家のことであると言うものである。 簡単に言うと、その門派が少林拳(少林寺で伝えられる拳法の総称)から来ているのか、そうではないかという分類である。
これでいくと、北斗神拳が俗に言う『北斗宗家の拳』からうまれたと言う以外、伝承が明らかにされていないので、分類することはできない。 しかし筆者に一つの提案したい説があり、それを後半にて項を変えて記そうと思う。
その他にも様々なものがあるが、いずれも曖昧であり分類が難しいので、このくらいにしておく。
北斗神拳に影響を与えた、または交流があったと思われる門派を考察してみる。
北斗神拳は様々な技術があるが、特にトキが得意としていた柔法に着目してみる。
ケンシロウがレイにトキの事を初めて語るとき、回想した姿勢を見る。
ここでは4姿勢が出てくるが、いずれも陳家太極拳の老架式に含まれる動作である。 各姿勢は、当然それぞれ太極拳以外の門派にも様々な形で見られる動作ではあるが、ここに現れる全てがそのまま陳家太極拳(老架式)に含まれるところを見ると、この門派が少なからず北斗神拳に影響を与えたと考えてよいのではないだろうか?
集英社 北斗の拳 第6巻 P179 より
左から・[てへん]婁膝拗歩
・[てへん]敝身捶
・如封似閉、または、単鞭~金剛搗捶の過渡等によく見られる姿勢
・単鞭
しかし、私の見る限りでは、このシーン以外ではトキを始め、北斗神拳士が太極拳の技を使うのを見たことが無い。 どちらかと言うと太極拳の様に相手に密着したするより、距離をおいた位置での間合いが多い。 どちらかというと太極拳より正反対の風格を持っていると思う。
ただトキが柔法が得意なため、個人的に兼習していただけで、ケンシロウがその動作を印象深くとらえて記憶していただけかもしれない。
「本来ならかれが北斗神拳の伝承者になるべきはずの男だった…」と言った後の回想シーンなため、
中国武術には硬功、軟功、気功、軽身功等併せて修行する門派も少なくない。 特に軽身功は近代でも、八卦掌の様に清の紫禁城を警備する者たちには必須で有ったとされる。 なぜなら、紫禁城の様な広大な宮殿を馬に乗らずに警備しなけらばならないからである。 また紫禁城は皇帝の住居な為、敵がせめて来たときのために、高い塀に何重にも囲われており、門を開けながらでは警備がおっつかないからである。
さて北斗神拳であるが、天帝守護の拳、天帝の戦車と言われている。 天帝が何を指すのかは不明確であるが、仮に時の皇帝を指すものだとうしよう。 漢王朝の皇帝の住居がどの程度の物かは調査中であるが、前王朝の秦王朝の始皇帝の物を考えても、広大な敷地を有していた事は間違いないだろう。 その敷地内を警護しなくてはならず、特に暗殺拳として受け継がれて来た北斗神拳には軽身功は必須であったと思われる。 現にケンシロウはその人間離れした跳躍等を披露している。
又、元斗皇拳、南斗聖拳も同上の理由より軽身功は兼修されていたようだ。
北斗神拳では、「北斗百烈拳」など、「~拳」と言う技が多い。 突きによる攻撃は「~捶」と呼ぶのが普通(または全く”つく”という意味を持たず、技のイメージをそのまま名前にしたものを使う)である。 「~拳」と言うと、「~門」と言った門派を表す意味を持つ。 そこで考えられるのが、北斗神拳は少林拳(*1)のように複数の拳種を集めた総称なのではないかという事である。
創始伝説にあるように、北斗宗家は僧達が守っていたという点
調べれば調べるほど 架式、発声などの北斗神拳とジークンドーとの類似点が浮き彫りになってくる。 これは北斗神拳がというより、ケンシロウがと言う方が近いかもしれない。
ジークンドーはご存じの方も多いと思うが、ブルース・リーが詠[永]春拳を元に創始した物である。 詠[永]春拳の伝説の一つに南少林寺=福建少林寺よりの出たものという物がある。 その他、南拳の多くは最大門派の洪家拳を始めさい家拳、仏家拳も福建少林寺を源流としている。
これらを考えると、 又、現在福建少林寺のものと思われる遺跡が発見され、今後の研究に期待する。
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